読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

この前の夜の

深夜、山の中の高速道路で車の後部座席に揺られるのが好きだった。運転している人も黙っていて車が走る音だけがゴーゴー聞こえる。ヘッドライトだけが道を短く照らしていて、明かりは少ない。窓からは大きな真っ黒い山が深いグレイの空を背負ってゆっくりこっちを見下ろしている。子供の頃のその場面の、不安と安心感が混じった気持ちとズレなく合致してくれる 包まれるようなそれが懐かしい。

 

暗く閉ざした部屋で毎日眠るとき換気扇の音を聴く。カーテンの隙間から壁に写る細い明かりが動いて、トンネルを連想した。気持ちも時間も子供の頃のそのときと変わらないのに、部屋はコンクリに固められ静止して動いていない。山も運転手もいないし後部座席は無い、窓の外を覗けばギラギラと遊んだ光で目が痛いだけだ。

夜、ほぼ見えない視界の中で大きく黒々と、そこにある山がとても好きだった。不安を象徴したような重い空を背景に、幻みたいだけどそこに存在している、それが今でもとても好きだなと思う。

 

今日おやつに食べたチョコレートの匂いが部屋に薄く満ちていて、ぼんやり現実に引き戻された。昼に食べ過ぎたので甘ったるくて鬱陶しいだけだった。

前から日記というか このブログみたいな、思った事を書いたりするのは紙にやっていて、一年前と二年前の2月のページを読み返した。前の私はこんなこと考えてたなあとしんみりしたのと、日記に書いてあった精神面でのこうなりたいという目標が結構達成できていて、気づかぬ内に、てのが最近身にしみる。

こうやってブログに文章を書くようになったのは人に見せる見られることが怖くないというか嫌ではなくなってきたからだと思う。流石に自分の精神面のこととかはノートにつけてるものの、どうにでもなれというか 半ば投げやりなのか、それとも自分の中身に対しての自己愛が下がったから公開できるのかもしれない。

 

何かを残しておく、というのは何だろう。絵を描いたり日記をつけたり写真を撮ったりする。大切なものはしまっておくし、寝床や家、帰る場所を作る。今日、金属トレイを両手で洗ってシンクに焦げを落とした映像も、冷蔵庫に手を置いてぼーっとしたときに感じた気持ちも、その瞬間にしかなくて過去のことになってしまった。生きていて切り取っておきたかった一瞬は数えられないくらいあるのに、何かとても素敵な物事や感情が長く続いていくことはなくのっぺりした背景にポツポツきらめくように散りばめられている。今までの人生の夢を見るなら、大きく輝く太陽も黄金の城もなくて、夜の砂漠にいるだけだなと思う。

私はよく物を捨てるのだけど、捨ててしまって暫くして後悔することもたまにあって、そういうのが嫌で物をあんまり持ちたくないからまた捨てていく。死ぬなら全部燃やして残したくない。誰かが作ったものに感情を乗せて塗って人が集めることは何か不思議だと思う。

ものに人の気持ちが宿ることは暖かくも切なくも感じる。きっとものは過去を表しているみたいだからだ。人から何かを貰えばそんな気持ちを請け負うことになる。なるべく自分で買ったもので部屋を埋めてしまいたい。

今日は乗り物のことを考えてた。

乗り物は人生を運ぶものや運命の抽象だ。

そうだとはっきり思っていなくても、無意識は人生に悩んだ時や進路について考えた日には車や電車とかの夢を見せることが多いし、そういうとき、脳みそはものとものを勝手に紐付けているなあとつくづく感心してしまう。

そんなイメージとか抽象の力は夢だけでなくて日常にも濃淡様々に表れていると思う。

車は一人または数人で乗って運転するもの、電車は多くの人を乗せて自分を運んでくれるもので、自転車は自分が漕ぐものだ。

私は東京の電車が全然好きじゃないのだけど、例えば多くの人と一体になることが喜びで  かつ何かに身を任せたいという人は電車に乗るのが好きなんじゃないかと思った。

 

橋はわたすもの、車は運命を表して、ゾンビは不安や生死を象徴している。人間の無意識は毎日適当に生きてても、何かを見聞きするとイメージを掻い摘む。そことそこが繋がるか、みたいなとこも勝手に掬い取っている。そういうのに私達はあんまり気づいてないけれど、話せば本人も分からない内に言葉の端々に現れているし、コミュニケーションでもそこが肝になっている気がする。思考で対話していると思っていても、無意識と無意識がキャッチボールしてるだろ、みたいなことがある。無意識は勝手に抽象で遊んでいて、シンボルを勝手に作り、意識に夢を見せてくる。それが面白くて夢占いなんかごちゃごちゃ見ちゃうんだけど、一人遊びの極みかもしれない。

今日はガードレールがやたらと目について印象に残ったけど何の意味があるんだろ。

生き

 

ゾンビの夢をよく見る。私の夢に一番出てくるシンボルはそれかもしれない。

だいたいそういうときは人類は滅亡していて、私達は籠城しているのだけど最後は出ていく。その後の結果はその時々。今日は、デパートに物資を取りに行ったら地下のゾンビで埋め尽くされたフロアに落っこちてしまった。ヤバいと思ったんだけど、強い殺意を抱いたら一瞬で殲滅できた。そんなことは始めてだった。良い兆候だとはと思う...。

私はゾンビというのに何か惹かれる。生きているのか死んでいるのか分からないのが良いんだと思う。あとゾンビ物は人類がほぼ滅亡していることも多くてちょっと気持ちが良いとか。ゾンビは不安を象徴してもいるので、よく夢に出てくるのはそれほど不安が私の中にあるということだろう。がっこうぐらし!9巻が早く読みたい。

 

 

 神様とは皆どんな風に考えているんだろう。孤高で万能であって、そこから信じれば民を救ってくれるもの、評価の言葉で使われる機会に多く触れたなら、それは成功者や尊敬に値する人物だと感じるんだろうか。

日本の神様とはアマテラスオオカミとか八百万の神様とか、そういうのだ。神社に祀られてるやつ。あれは恩惠 豊作を願う、とかもあるけど、祟りをおさめるため、とかもある。所謂神道だ。

でも本当はそんなのはない。神様や宗教や信仰なんてのは人間が勝手につくった。本当に宇宙を創造した神様がいるなんてよく信じられると思う。

とはいっても、その神道的な考えは好きで、つまり神とは恩惠を与えたり祟ったりするもののことを言う。言うなれば、くねくねも貞子も山の動物とかも神になる。だから神なんかいくらでも存在しえるし、一神にしがみ付いて他の神を否定したがる必要もそんなにない。

更に上に挙げた神様は引きこもりだ。その強い神性で内に塊り、外部を遮断している。だから人気のない山の中に社があったりする。そうじゃないのもいるけど。

 

 神様は人間が考えたものなら勝手になってしまえばいい。自分にぴったりだと思う。そうすれば、他に変なものを信じなくてすむし外部を弾ける。

あくまで神とは、別に万能でも崇高でも創造主でもなく上に書いたようなもののことを言うとしてだ。宗教でもないから決まりとか信者とか変な儀式もいらないし。社や祠はかっこいいから建ててほしいけど。他の誰かが神になってくれるというなら、もちろん私の欲望や感情を全て満たしてくれるという意味で言うんだろうな と思う。

自分の願いを叶えて護ってくれるものが神というのもあるかもしれない。全員自分自身を信じればいいのにという話だな。

でも、外界に求めて、和になって生きるなら、皆で同じ神を信じるのかもしれない。そっか、それはそれであるかもなあ。

でもそうやって外を思うたび、人間は生きにくいと思う。生きにくくない?山の動物に生まれたらどれだけ良かったか。針葉樹林に住むデカい狼ならどれだけうっとり暮らせただろう。毎日義務もなく、ただ生きるために生きるというのはどんな感じだろうか。

人間は賢いから沢山言葉や文章や決まりごとやルールを作って身体を縛る。でも機械より馬鹿で苦しい思いをするし、

だから機械になろうとして感情を疎かにして軋轢をこさえていく。優しく厚みのある環境は人間でなくても動物なら充分にできる。動物を辞めたがる人間が嫌いだ。

人間にしかできないことはいったい何だろうと思ったけど、別にいいや。

そんなのはないし、人間は動物の中の人間であるというだけだと思う。

カーテンの話


こっそり学校に行ってまた絵の練習をする夢を見た。妙にリアリティがあった。忍び込んでも当然バレるので、授業の回数券を買ってやり直さないか先生に勧められた。でもバイトと重なると寝ても疲れが完全にとれなくて結構キツいんだよなあ、とか考えてた。


 私の部屋は真っ黒の遮光カーテンがしてあって、目が覚めると天井や空気や壁がどす黒く染まっている。そこに隙間からお昼の白い光が射したり、置いてある物の色が少し混じったりしてますます汚く重たい雰囲気になっている。例えるなら沼の底みたいな、でもそれが良くて、安心する。

前のカーテンは白っぽく薄水色でぺらぺらしていたので朝7時頃になると部屋が氷色になって、毎日未来や新時代や異世界に来てしまったみたいな気持ちになっていた。それが嫌で真っ黒にしたけど、今度は安心はするもののちょっと重すぎたかなと思う。壁が白だからコントラストが強すぎてカーテンが部屋に馴染まないし。次はもう少しだけ明るい色の遮光100%防音カーテンを買おうかな。

休み


もうすぐ春が来るらしい。全然そんなこと頭になくて、もう二ヶ月くらいは凍りついた冬が続くとぼんやり捉えていたから急に暖かくなってびっくりした。早いなあ。


現実主義とは悲しいものかな。私は違うと思う。

現実主義が悲しいという人はその人が自分の現実を認められず、その人にとっての現実が悲しいだけだ。そのままの現実を見据えて自立して行動し、自分の現実を嬉しく幸せだと思える人にとっての現実は認められるものだろう。現実を見て生きるのが悲しく哀れだと言うなら、そのままに生きるという健康な生き方を否定していることになる。

そもそも現実も本物も真実も、悲しくも嬉しくも楽しくも醜くも綺麗でもなく 全てただそれだけで何の意味も価値もなく、そこにただあるだけだ。

妄想は妄想でしかないし希望は希望でしかなく、期待も期待でしかない。思うだけなら自由で楽しいけど、それが起こるなんて確信はない。それは、そうならないならばならないし、なるならばなるだけだ。過度に夢を見ることは外に求めすぎることだ。自立とは希望を叶える確率の一番高く、かつ周りも自分も気持ちの良い交流をとれる方法だと思う。

意味も価値も現実もそもそもはなく、人間がつくった。全て嬉しくも悲しくも楽しくもないのに、人間の無意識や意識がそれらへ更に感情を付加して見せたいように見せる。感覚が曖昧になってふわふわするのは楽しいけど、夢や幻は人の目を曇らせる。そのままを捉えるということは大切なことだとずっと思っている。そのままを無視するなら不可能な計画も立てられてしまう。必要なのはその逆だろう。

現実は悲しいものでもないが幸せだったり嬉しいものでもない。現実はただの現実でしかない。実が現れていると書くし、生きた結果によって各々に様々に色付くんだと思う。概念に対しての感情は後付けだ。

希望や期待よりも抽象の力を信じた方が良いと思う。希望や期待は意識による色眼鏡がかかりやすい。無意識の働く抽象は自我の感情よりも正確性を優先してくれる。アイデアや神のお告げや第六感と言われるやつはそれだ。

寝起き

起きた

 

最近のイチオシはZOOKEEPERで、面白いし楽しい。

 

今日は沢山食べる夢と昔好きだった学校の先生から美味しいチョコを貰う夢を見た。先生は地味な既婚者だったんだけど、夢の中ではワイルドな格好をしていたのでちょっと面白かった。

 

学校とかに通い始めると沢山の人の中に放り込まれる訳で、そこで大勢や数人で固まれたり気の合う友達を見つけたりする。

それで、そこで皆と同じって錯覚できる?とか集団の中に馴染んでいけたりするのが羨ましかったしなんか不思議だった。

だいたい、同じことが起こったら同じ反応をする人で固まるけど、同じことが起こって違う反応をする人間がいて、それは今でも何でだろうと思う。

私は教室の隅で誰かが話しかけてくれるのを待っていて、一人で遊んだりしていた。そこから上に書いたようなことを考えて皆のことを見たりしていた。多分ぴったり同じ人間じゃないと違和感があって、それが理解できなくて強情で嫌がってたんだと思う。

最近は人間関係はそういうことじゃなく共通の何かをもって違う人々が集まり、徐々に理解し合っていくのが健康なのかも とやっと分かれたような気がする。

でもやっぱり、どうして同じことを聞いたり見たりしても、人によって反応が違うのか不思議だといつも思う。こんなに違うのに人間という括りにひとまとめにはできないんじゃないかって感じがしてしまう。

人によってどんなことを体験してどういう環境で生きてきたかが違うから、人間の反応の違いがあるのは分かるけど、

でもそれを知りたいのが、面白いのか悲しいのか怖いのか嬉しいのか楽しいのかよく分からない。

他人を理解するには自分をもとにしてそうするのだから、自分を理解してないと難しいことだと思っている。自分が体験したことのない感情は、他から教えられてもやっぱ分からないんじゃないかという気もする。

ただどんな感情も人はちょっぴりは体験したことはあって、自分の生きてきた周りを理解するのは易しめなのかも。

本当に全然違うと思うような人は難しいし、理解できたような気になっても自分の感情を投影しているだけだったりする。それじゃ齟齬が沢山生まれてどんどん噛み合わなくなってしまうんじゃないかというのが怖い。

 

とりあえず、最近は嫌な状況から抜け出そう抜け出そうという感じで、あんまり良い気持ちではなく結構嫌な感情ばかりで満たされている。

怒り 恨み 悲しみ 虚しさ 罪悪感 寂しさとかはなるべく感じたくない。それを無視して抑圧したところでツケは回ってくるし、さっさと片付けをする方が健康だと思っている。